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難民の流入
北部同盟がカブールを占拠し、パシュトゥン民族の勢力争いもあいまって、アフガニスタンは争乱の地になった。処刑、略奪、復讐などが伝えられる一方で、国連軍の展開も準備されている。
北部同盟が勢力を伸ばし、タリバンが駆逐されることに目標を置いた空爆は、急速に新たな段階に移行している。アメリカとともに北部同盟を後押しし、空爆を仕方ないと認めたマスコミやジャーナリストは、今どのように考えるのだろうか。
今という時代は、歴史の転回点になるだろう。国家の暴力 (タリバンもアメリカも) に対する批判や反省の視点を今後貫くことができるのか、あるいは、批判も反省もなりを潜めた歴史が開かれようとしているのか。
かつて湾岸戦争ではメディアが沈黙して、国家による情報管理が徹底されたが、このアフガン戦争は、戦争や爆撃に対する批判の考えが管理され、沈黙させられていく分岐点のように思える。ヒューマニズムが国家エゴにからめとられていく分岐点なのだ。
日本の政府もそうした時期であることをはっきりと見とおして、法整備を進めて、さらに自衛隊派遣を決定した。
こうした動きをきちんと見とおせるのか。
今ここで、同時多発テロは何だったのか、アメリカの空爆はどのような意味を持っているのか、考え直す時間が必要であるように思える。その仕事をアフガン難民キャンプのレポートから始めたいと思う。
パレスチナから帰国したのは 10 月 23 日、そしてパキスタンに出発したのは 29 日である。
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カンダハルに近いチャマン難民キャンプでは、空爆をのがれて逃げてきた人びとが続々と詰めかけている |
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30 日早朝、パキスタンの西部ペシャワールに入った。
猛烈な排気ガスと土埃に苦しめられた。のどと目がすぐにおかしくなった。
難民キャンプはほとんど部族地域と呼ばれる場所にあって、特別な許可証がないと立ち入れない。アフガン難民事務所とパキスタン部族地域の事務所を往復して許可証を取るのだが、なかなか面倒である。そしてキャンプは危険が伴うからと、警察官の同行が必要だ。そのために警察の許可もいる。
結局パキスタンのペシャワール周辺の難民キャンプ (ナサルバハ、シャムシャトゥ、カチャガリ)
と、アフガン国境のチャマン難民キャンプに入ることができた。ナサルバハは普通は許可が下りないのだが、特別に入ることができた。しかしアザヘル難民キャンプはとうとう許可が下りなかった。内部に大量の武器があるため、ジャーナリストが入るのは困るのだと説明された。聞くとジャーナリストがキャンプ内に立ち入って撮影することはあまりないそうだ。キャンプの外の道路から撮影するにとどめるのである。難民が取材陣を歓迎しないどころか、敵意をもっているからである。
これらのキャンプの住人はほとんどがソ連侵攻時代の難民で、彼らは泥作りの家に住んでいる。それが想像を絶する数だ。ペシャワール周辺の難民を合わせただけでも
200 万人以上いるという。
この泥作りの小屋がはるかに続くのを見ながら、1969 年にジェリコで見たパレスチナ難民キャンプを思い起こした。ユダの荒れた山すそに広がっていたドロの小屋群は、家々の輪郭を見分けることも困難な押しつぶされたような光景で、猛暑のなかに静まり返っていた。
それと同じ光景なのだ。この難民キャンプの人々はイスラエルが独立した 1948
年の戦争の時に難民になり、1967 年の第 3 次中東戦争で、ヨルダンに避難していったのだった。生涯に
2 度難民になったのである。
アフガン難民キャンプでは泥作りのキャンプのはずれに、テントが並び、そこに今回のアメリカ軍による空爆の結果発生したアフガン難民が収容されている。
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| カチャガリ難民キャンプ。雨のあと川のようになった大通り |
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ペシャワール滞在中に雷雨が襲った。雷が荒れ狂い、停電の暗闇を激しい雨が叩きつけるように降った。
次の日 8 万人が住むというカチャガリ難民キャンプを訪れた。家々は溶け出して泥の底にみ、人々はドロをすすって生きているように思えた。
一方、4 年間も雨が降らないというチャマンの国境では、あらゆるものが土気色にくすんでいた。チャマン難民キャンプは、今回の空爆後の
10 月 29 日に UNHCR (国連難民高等弁務官事務所) によって設営が始まり、訪問した
11 月はじめで 2,200 人が住んでいた。
土煙の中でキャンプ入りを待つ人々がうずくまっていた。しかしパキスタン政府は国境をほとんど閉ざしている。開ければものすごい数の難民が流入し、対処しようがなくなるからという。パキスタン政府はソ連軍侵攻時の難民流入の例を見て、当座は各国が支援の手を伸ばしても、すぐに難民を見捨てるに違いないと思っている。今回もアフガン難民の救援を世界中が準備し、国境を開けるように圧力をかけているが、熱がさめたらじき手を引いて、その後は結局パキスタンがすべて引き受けなければならないのではないかと懸念しているのだ。
そのせいで実際の救援活動は困難を極めている。さらに難民たちが抱く海外ジャーナリストや
NGO に対する大変な敵意にさらされる。
それは私の経験した次の例からも分かる。
>> (2)「アメリカ人だ」

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