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【東京 8 日】
ベラルーシのミンスク、ゴメリ、ドブルーシの高濃度汚染地帯、アクサコブシナ放射線医療研究所、ナデジダ (私たちが支援している学校サナトリウム) を回って戻りました。
チェルノブイリ事故から 16 年半近くたち、当時の子どもたちの大半は今、青年期から大人になっています。
国家財政のひっ迫によって、18 歳で様々なチェルノブイリ関係の援助はうち切られることが多いため、それ以来、病院にも行っていないという女性がいました。今
20 歳です。
彼女は甲状腺を手術しているため、ふつうでも大変なのに、今、離婚問題を抱えています。
私が彼女と初めて会ったのは、彼女の結婚式でした。幸せの絶頂にいました。彼はプロのサッカー選手でした。しかしそれから
1 年で、夫は足を怪我し、サッカー人生を絶たれます。そして酒浸りになり、彼女の実家の物も売って酒に変えていくようになりました。それで
2 人の関係も破綻し、とうとう離婚訴訟に踏み切ったのです。
彼女は不断に、頭痛やいらいらに悩まされています。甲状腺を切除しているため、ホルモンのバランスが崩れていることは確かです。彼女は自分が壊れてしまうのではないかと怖れていました。検査に行こうにも大変なお金を請求されるというので行けません。小学校で音楽を教えていますが、月給は
40 ドルです。
私は彼女と別れるときに記念写真を撮りました。そして肩に手を当てたときに私は胸を突かれました。いちばん瑞々しいはずの時期に、彼女の肌は年を取った人のように張りが無くなってしまっていたのです。成長をつかさどる器官の切除が、彼女の肌を変えたのです。
18 歳の青年に会いました。彼は甲状腺の手術のとき、神経を損傷したため、右手がほとんど動かなくなりました。そして言葉を発するのが苦痛になり、性格もすっかり変わって、ほとんど動き回ることはなくなりました。今、彼が抱えているのは、体内カルシウム値が非常に低いということです。いらいらし、緊張し、倒れることもあります。点滴でカルシウムを入れても、ほとんど値は上がりません。このままいくと危険な状態になりますが、研究所もどうしたらいいのか分からないそうです。父親もいなくて、母親は気丈にしていますが、ときどき不安で張り裂けるような表情を見せます。
この前のコラムでお伝えした女性は、急遽イギリスに行きました。みかねた救援団体が招待し、彼女は迷ったのですが、母親が強く勧めました。助かるチャンスを少しでも確保すべきだというのです。
チェルノブイリ事故のとき、彼女は大変な汚染地帯にいました。もちろん事故のことは隠されていて、長くその土地の物を食べ続けました。彼女の村は今も立入禁止地帯になっていますが、事故直後は今の何十万倍もの放射能がありました。そして甲状腺の手術をすることになります。
彼女が結婚したのは昨年 10 月 6 日でした。写真をもらいましたが、美しい娘に成長していました。相手は同じ職場の陶磁器工場の職人で、彼女はそこの警備係の仕事をしていました。そして結婚式のときには妊娠していました。
結婚式の 4 日後に彼女は倒れました。病院に運ばれますが、流産します。夫は励まし続けます。
12 月 25 日、18 歳になった子どもたちは、それまで加入していた子供のための救援団体を離れます。彼女も出席しましたが、夫はそこで
100 人もの人々を前にスピーチを請われて話し始めます。
「ここにいるみんながガンや困難な病気を抱えていることを僕は知っています。乗り越えることがどんなに大変かも。でも、ひとりひとり孤立していては病気に負けてしまうかも知れないけれど、みんなで力を合わせれば、病気に勝てると信じています。僕も力になりたい」
それから数ヶ月たち、今年の 3 月、彼女は乳ガンが発見されました。そして切除しました。彼女は次から次に降りかかる出来事に、すっかり絶望してしまい、泣き叫び続けたといいます。それを夫が支えました。
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甲状腺ガンが転移し、乳ガンの手術を受けた女性の村は、この家を除いてすべての家が地中に埋められた |
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彼女の故郷の村を訪ねました。1 軒の家だけが残されて、すべて地下に埋められていました。放射能の拡散を防ぐためです。しかし放射能は、避難していった人々の体内で時限装置が臨界を迎え、青春時代の人々を襲っています。
そのほか何家族か訪ねましたが、1 つの家族のほとんどがガンになっているケースもありました。事故から長い年月がたって、被害者は孤立して、不安と闘っています。
今回、撮影した写真は、「チェルノブイリ子ども基金」から募金を集めるために発行される来年度カレンダー『チェルノブイリから
17 年 - それぞれの青春 -』に掲載する予定です。
チェルノブイリ子ども基金
http://www.smn.co.jp/cherno/

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