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■ HIRO COLUMN 文:広河 隆一
優先順位
 
Posted: 8/21/2002

 【ミンスク 19 日】

 ベラルーシのミンスクに来ています。チェルノブイリの救援を兼ねた取材です。

 昨年の夏の終わりに、ウクライナでコウノトリの取材をして、そのコウノトリを追いかけてイスラエルに行きました。その直後に 9.11 ニューヨークテロが起こり、それからはイスラエル・パレスチナとアフガニスタンに、これまで 9 回も通いました。どうしてもチェルノブイリよりパレスチナを優先させたのです。

 体がひとつしかないという当たり前のことで、私はそのときどき、どこへ行くかを決めます。当然、そのとき行けない場所も出来るわけです。

 たとえば 1986 年にチェルノブイリ事故が起こったとき、私はベイルートの難民キャンプの救援にかかりきりでした。そこでは難民キャンプが封鎖され、食物はおろか医薬品さえ届けることは出来ませんでした。毎日、子どもが死んでいました。チェルノブイリどころではなかったのです。

 しかし 1990 年に和平の機運が始まって、ベイルートの難民キャンプで毎日のように殺されていたのが、やみました。

 その直前から行き始めていたチェルノブイリでは、想像をはるかに超えて恐ろしい事態が生じていることが分かってきました。この頃から救援活動を始めて、そして 91 年には「チェルノブイリ子ども基金」を作りました。

 子どもの甲状腺ガンが急増するのもこの頃です。

 それからは、しばらくチェルノブイリに関わりきりでした。1996 年のチェルノブイリ事故 10 周年の頃は、もちろん何回も汚染地帯に入りました。やがて『チェルノブイリ 消えた 458 の村』を出版しました。

 そのすぐ後に、パレスチナの第 2 次インティファーダが始まりました。それからは、ほとんどパレスチナでした。

 その間にチェルノブイリの子どもたちは大人になっていきました。甲状腺ガンの手術をした子どものひとりから結婚式の招待状が届きました。ハイティーンの結婚は、この地方の村では珍しいことではありません。

 しかし私は行きませんでした。クリスマスカードが届いても返事も書きませんでした。私は安心しきっていました。そして事態が深刻化するパレスチナに優先順位をつけていたのです。

 その女の子が結婚して 1 年目に流産したこと、2 年目に乳ガンになったことを、つい最近知りました。私に知らせても助けがないとあきらめたのか、絶望にさいなまれて心を閉ざしてしまったのでしょう。彼女はまだ 20 歳にもなっていないのです。

 明日、私はその子の住む地方に向かいます。

 いまさら何が出来るのか、全く分かりません。

 私が出発前のコラムで、今回のチェルノブイリ行きは辛い旅になると書いたのはこのことだったのです。

 追記

 パレスチナの村の写真集の最後の編集を終えて、こちらに来ました。

 サンプルを送ったノーム・チョムスキーさん (ユダヤ系アメリカ人、世界的な言語学者) から、すばらしいとほめていただきました。彼は今、推薦の言葉を書いてくれています。これまで推薦文を書くことを快諾してもらったのは、板垣雄三さん (東京大学、東京経済大学各名誉教授)、ワリード・ハリディさん (パレスチナ人歴史学者)、シュロモー・ザンドさん (テルアビブ大学歴史学教授) の方々です。

 この仕事は、きっちり終えなければなりません。イスラエルのユダヤ人の左翼の友人たちは「自分たちユダヤ人こそ、この仕事をしなければならなかったのに、日本人がやってくれた」と言ってくれました。

チェルノブイリ 消えた 458 の村 (bk1)
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?aid=p-hprs14045&bibid=01684208

>> アブニダルの死

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チェルノブイリ子ども基金 2003 年カレンダー

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