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■ HIRO COLUMN 文:広河 隆一
アブニダルの死
 
Posted: 8/21/2002

 【ミンスク 19 日】

 アブニダルが死んだと報じられました。65 歳。

 ファタハの中の穏健派を次々と殺害し、PLO を追放されていたアブニダル派は、パレスチナの組織の中でもいちばんいやな相手でした。

 というのは、私はかつてアブニダルの殺害リストに入っていたからです。

 なぜかというと、私が当時代表をしていた「パレスチナの子どもの里親運動」は、難民キャンプの社会福祉団体「ベイト・アトファル・アルソムード」の最大の寄金元でした。しかしアブニダル派は、子どもたちが勉強の機会を与えられ、ゲリラになるのとは別の選択をするのが気に入りませんでした。海外の支援金で生活することなど、世界の慈悲を乞うているようなものだというわけです。救援は堕落だと彼らは考えました。飢えて戦士になるべきだと。

 そのような危険な時代に、私は何度かベイルートに行く必要がありました。そのころアブニダルが私に対する殺害予告をしたのです。

 「ベイト」を担っているのはパレスチナの女性たちでした。彼女たちはアブニダル派の事務所に押し掛けました。「広河を殺すなら私たちを殺してからやれ」と。「あなた方の子どもたちも広河の団体の世話になっているのを知らないの」「明日から子どもに何を食べさせたらいいのか考えてから、どうするか決めなさい」と。

 彼女たちの迫力の方が勝ったのです。世界で最も過激な暗殺作戦をしていたアブニダル派は女性たちに屈しました。

 1977 年のレバノン内戦、1982 年のレバノン戦争と虐殺事件、1986 年のキャンプ戦争と嫌なことは多くありました。銃を突きつけられてヒズボラ (神の党) に誘拐されたこともあります。アマル派に「次はお前だ」と直接宣言されたこともあります。彼らは毎日の私の行動をすべて掌握していました。パレスチナ人を支援する外国人はすべてターゲットになったのです。ホテルでいっしょだったジャーナリストが、ぐるぐる巻きにされて車のトランクに放り込まれ、誘拐されたこともあります。釈放されたのは 2 年後でした。飛行機が滑走路に出たとたんにロケット弾を見舞われて、それから数ヶ月、空港が封鎖されたこともあります。最前線で、自動小銃でねらい撃ちされ、逃げ回ったこともあります。

 9 月に私は久しぶりにベイルートへ行きます。

 生きのびたことを確かめ合える親しい人たちも多くいるのです。

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