HIROPRESS.net   アーカイブ
■ HIRO COLUMN 文:広河 隆一
死者の数
 
Posted: 4/16/2002

 【エルサレム 15 日】

 今、ナブルスから戻ってきました。カスバと呼ばれる中心街の破壊の跡は、すさまじいものでした。

 死臭漂う瓦礫の中から、年輩の婦人のものと思われる死体が出てきました。建物が幾つか全壊している場所では、まだ数十人の死体が埋まったままだということです。

 昨日はジェニンから戻りました。のべ 4 日間かかったジェニンの取材は、本当に大変でした。

 3 日目、周辺の村が外出禁止令下におかれたため、徒歩でジェニンに向かいました。

 手前の村ではイスラエル戦車に見つからないよう、山越えをしました。

 しかしジェニン市に入ってすぐ、戦車に見つかってしまいました。猛烈なスピードで突進してくる戦車から逃げ回って、行き止まりに入ってしまったとき、向かいのパレスチナ人の家の扉が開き、ここに逃げ込めと手招きされて、そこへ飛び込みました。

 本当は見つかったら逃げてはいけないのです。すぐに両手を上げて、止まらなくてはなりません。そうしないと機銃掃射されます。あと 1 〜 2 秒遅れていたら、確実に射殺されていたと思います。身を隠した家のすぐ横に戦車が止まり、砲塔が旋回して、機銃が周囲に向けられるのが、かいま見えました。

 戦車があきらめて引き上げるまで、10 分ほどかかったでしょうか。その間、階段の陰で息を潜めていました。

 そこに隠れ続けると、その家に迷惑がかかるので、その日はジェニン市の一軒の家に泊めてもらいました。キャンプから 500 メートルです。夜、イスラエル軍が「作業」している光が見えました。キャンプの女性が風呂場に逃げ込んで、そこを撃たれたとか、子どもたちが高い窓から逃げようと飛び出して、次々と落ちていったというような、証言を聞きました。

 次の日、建物や木立に身を隠しながら、難民キャンプに近付きました。

 しかし道一本越えたら難民キャンプというところで、オリーブの林から走り出たら、装甲車につかまってしまったのです。両手を上げて、ようやくそこから逃げて、そして再び別の道から、這うようにしてキャンプを目指しました。

 ところがキャンプの入口は戦車が待機して、どうしても入れません。キャンプの中では煙が上がり、絶え間なく建物を爆破する音が響きます。

 この日、イスラエルはジェニン難民キャンプの死者の数を 26 人と発表しました。数百人と思われる死者を 26 人に減らすためには、死体を処理しなければなりません。そしてジャーナリストには、「清掃」が終わった所だけを見せるのです。

 私が入ろうとした前日に、ロイターがキャンプの中に入り、10 人ほどの死者の撮影をしました。イスラエル軍はそれで、キャンプの閉鎖を徹底し、建物を爆破し、穴を掘って死体の処理をし (証言をいくつも聞きました)、運び出したのです。

 私は結局、そこまでしか行けませんでした。疲労感と喪失感は大変なものでした。今日、イスラエル軍にエスコートされてのキャンプ取材がありましたが、それは死体の処理が終わった場所だけでした。

 この文を書いているときにサイレンが鳴り渡り、イスラエルの独立のときに死んだユダヤ人を追悼する記念の日が始まりました。しかしこの国では、同じときに死んだ他の民族の死は決して省みられないのです。たとえそれが、イスラエルに殺された人々でも。

HIROPRESS.net

アーカイブ

Copyright 2001-2002 Hirokawa Ryuichi. All rights reserved.